nokosu社長インタビュー

「タオルは、手紙だ」──日本橋で80年、日東タオル三代目・鳥山貴弘が”課題を解くプロセス”を楽しむ理由

タオルカフェで笑顔を見せる鳥山貴弘さん

2026年4月、日本橋横山町の黄色いビルの一階のイベントスペースで、訪れた人たちが店のタオルを一枚ずつ選び、一年後の自分に宛てて手紙を書いた。

手紙とタオルはセットにして店が預かり、2027年4月、一人ひとりのもとへ投函する。一年前の自分からの励ましと、そのとき「これだ」と思ったタオルが、一緒に届くという仕掛けだ。

企画したのは、日東タオル株式会社の三代目、鳥山貴弘さん。祖父が1947年に創業し、約80年続くタオル問屋で、2022年、父が倒れたのをきっかけに代表を継いだ。社員は25名、うち9名が家族という会社だ。

コロナ禍には仕事が半分に減り、いまも会社には向き合うべき課題が尽きない。それでも鳥山さんは、課題を一つずつ解いていくそのプロセスを楽しむことこそが解決の近道だと考え、どこか楽しそうに前を向いている。

「タオルは、手紙だ」——2021年4月にふいに降りてきたその言葉を、鳥山さんはいま、確かめるように育てている。

タオルカフェでインタビューに答える鳥山貴弘さん

「タオルは、手紙だ」──ゆりかごから墓場まで、そばにあるもの

タオルにメッセージが込められていたり、タオルがあるだけで安心したり——そんな場面に、鳥山さんは何度も出会ってきた。「私にとってタオルってそんな存在なんです」という話を、人から聞くこともあった。

タオルが手紙のようになったら、これは僕らにとってやりがいになる

店内のタオル売り場で商品を紹介する鳥山さん

それ以来、会う人ごとに「タオルは手紙、って言葉が降りてきたんですけど、どう思いますか?」と聞いて回っている。相手が自分の仕事に引き寄せて答えてくれるたびに、タオルと手紙が重なり合う場所が少しずつ見えてくるのだという。

考えてみれば、タオルは不思議な存在だ。生まれた赤ちゃんを最初にくるむのもタオルなら、介護の現場でたくさん使われるのもタオルで、人生の最後にそっと拭うのも、紙ではなくタオル地のものでありたい——ゆりかごから墓場まで、いつもそばにある。

「ここにタオルを一つ置くと、好きか嫌いか、全員に意見があるんですよ。誰とでも話題にできる。祖父や父が、よくタオルをつないでくれたなと思います」

もっとも、本人は「まだ、お伝えできるところまで腹に落ちていないかもしれない」と正直に言う。現実味がないと笑われることもあるが、黄色いシャツを着て歩くようになってからは、それもいいかなと思い始めたそうだ。

「足るを知れ」──15歳で上京した祖父が、タオル一本に絞るまで

日東タオルの歴史は、一人の少年の上京から始まる。

鳥山さんの祖父は、福井県大野市に生まれた12人兄弟の下から3番目だった。姉の嫁ぎ先がタオル屋だったことから、「食べるため」に15歳で上京し、丁稚奉公に入った。

やがて戦争が激しくなると海軍に入り、船に乗った。周りの船が次々と沈むなか、自分の乗っていた船だけは沈まず、終戦後、奇跡的に生きて戻ってきた。田舎の家族を支えるため、日本橋横山町で闇市のように働き始めた——そこが、いまも会社の顔である黄色いビルの、創業の地になっている。

創業の地に立つ日東タオル本店の黄色いビルと鳥山さん

はじめはタオルだけでなく、布や生理用品まで扱っていた。戦後、祖父が独立した際には、晩年の曽祖父(祖父の父)が上京し、一緒に働きながら商売のいろはを教えた。商売が軌道に乗り始め、さらなる成長を目指して新しい事業を探す祖父に、曽祖父が釘を刺した。

「あちこち手を出すな。お前が一番詳しいのがタオルなら、タオルに身を捧げなさい」

曽祖父がよく口にしていた「足るを知れ」の教えは、父を通じて鳥山さんにも語り継がれてきた。いろんなことをやりたがる自分に、時々「天から串を刺される」ような気がするのだと笑う。

「かっこいいタオル屋」をやめて、黄色いシャツを着るまで

鳥山さんが家業に戻ったのは、2014年4月のことだ。教育学部を出て、コンサルタント、学校の教員を経ての入社だった。

70年も同じ仕事を続けてきた会社が、このままで環境の変化に適応し続けられるのか——そんな不安から、外で学んだことを少しずつ持ち込んだ。ただ、最初に目指したのは「かっこいいタオル屋」だった。

有名なデザイナーと組み、普通よりも高いタオルをブランドとして売り出そうとした。当時は、あの黄色いビルもあまり好きではなかったという。

けれど、もっと売れるように、もっとかっこよく——そう追いかけるほど、それができない自分に、ひどく落ち込んだ。「自然体でいられないな、と思ったんです」

転機は、周りの人たちの言葉だった。テレビに出る機会があったり、いろんな人と縁ができたりするうちに、「鳥山くんと黄色って、とても合ってるよ」「歴史のところをもっと大事にしたら」と言われるようになった。

2016年には、タオルの卸のショップをリノベーションして、タオルに囲まれたカフェに変えた。目立つビルを構えて客を待つ商売から、お茶会や飲み会を開いて自分から声をかける商売へ——「経営的には難しいことも多いですけど、新しい方と出会う入り口になっています」

タオルカフェのカウンターでコーヒーを淹れる鳥山さん

根は人見知りだが、打ち解ければ話し好き。お客様や出会った方々と話すうちに、80年前から似たようなタオルを畳んで届けてきた自分の仕事の意味まで見直せるのだという。

「自分のケアが、一番ままならなかった」──80年を、一つの言葉に置き換える

かっこよくあろうとすると、こぼれ落ちるものがあった——鳥山さんが人生の半分を捧げてきた「ケア」の領域だ。

生まれたときから、障害のある叔母と同居していた。母を中心に家族で介護を続け、鳥山さん自身は離れて暮らした時期もあったが、44年間を叔母とともに過ごした。2024年、急に見つかった末期がんでおろおろしながらホスピスを探し、叔母を見送った。妻は作業療法士、妹は理学療法士でもあり、ケアは家族の日常そのものだった。

けれど、ケアにたどり着いた理由を問われて、鳥山さんが挙げたのは叔母のことではなかった。

「叔母をケアする僕自身にも、ケアが必要になるんですよね。自分の体ですら、ままならないことが起こる」

タオルカフェのカウンターと店内の様子

ケアにたどり着いた理由は、自分のケアが一番ままならなかったということかもしれないです

2026年9月、会社のWebサイトと理念を全面的に刷新した。祖父は「売って喜び、買って喜び」を大事にしていたと聞くが、鳥山さんが一つに絞った言葉は「軽やかに、ケアし続ける。」だった。

タオルは、介護、美容室、整体といった癒しの場面——ケアのそばにいることが多い。重くなりがちなケアを、タオルで少し明るく、軽やかにできたら。そして歴史をひもとけば、祖父が、二人の妹を田舎から呼び寄せて働く場を用意し、ともに働きながら、早くに母を亡くして男手一つで12人の子を育てた父に感謝を伝えようと懸命に働いたことも、結果としてケアだった。

「80年間やってきたことを、いまようやく僕なりの言葉に置き換えたのが、軽やかにケアし続ける、なんです」

いまは社長業のかたわら、社会福祉士の学校にも通う。「ケアといえば日東さんだね、と言ってもらえる会社にしたいんです」

「レベル20で、ボスを倒すほうが面白い」──課題を解くプロセスを、ゲームのように楽しむ

社員から「なんでうちはこんなに問題だらけなんですか」と言われたとき、鳥山さんはこう返したという。

「何のいざこざもなく、売り上げと給料だけがすーっと出てくる会社なんて、つまらなくない? レベル99まで上げてボスを倒しに行くゲームを毎日やるより、レベル20でレベル40のボスをどう倒すか考えるほうが、面白いんじゃない?」

問題をすべてなくしてから前に進むのではなく、一つずつ解いていく過程そのものを楽しむ——それが結局は解決への近道になる、というのが鳥山さんの考えだ。

鳥山さんはドラゴンクエストが大好きで、社員にも同じ世代が多い。ただ、その言葉をいつでも誰にでも投げられるわけではない。今の彼なら聞けるか、今日の彼女には届くか——顔色をうかがいながらタイミングを計っているのだと笑う。「僕自身も、難しいゲームを毎日やっているんです」

会社で大事にしたいことは、3つに絞った——「自分をケアすること」「対話すること」「ワクワクすること」で、その筆頭が自分のケアだ。

「会社の健康状態は、社長の健康状態に一致する」

鳥山さんが強く痛感していることがある。人間関係でも売り上げでも、何かトラブルが起きて自分が悩みはじめると、会社の健康状態もみるみる悪くなっていくのだ。

社員全員とは、毎月一対一の対話の時間を持つ。10年、15年、20年と勤める社員も多く、教えるというより「どうすればもっと働きやすくなるか」を一緒に調整する時間だという。ただ、自分に余力と余白がないときの面談は、あまりいいものにできていないかもしれない、とも認める。

そこでつくったのが「保健室」だ。対話の上手な社外の人に入ってもらい、全社員と3カ月に1回、一人45分ずつ面談してもらう。約束は一つで、話の中身は社長に報告しなくていい。

「みんな、終わったあとすごく清々しい顔で出てくるんですよ。僕だけが外でそういう方と対話する機会をもらって、勉強すればするほど、社内にあったほうがいいなと思ったんです」

「喧嘩して、どうするんだ」──人員削減の苦さと、ふらっと戻れる会社

これまでで一番大きな苦難を問うと、鳥山さんは「人の問題」と答えた。

コロナ禍で仕事が一気に半分ほどに減ったとき、専務だった鳥山さんは人員削減に踏み切らざるを得なかった。「いまでも、申し訳なかったという気持ちしかないです。もうちょっと早く気づいて、違う手を打てていれば。でも、あのときの実力では難しかった」

タオルを抱えて店先に立つ鳥山さん

喧嘩別れしたスタッフも、円満に卒業していった人もいる。それでも、辞めた人が10年後に悪口を言うのではなく、ふらっと顔を出せる会社でありたいと願う。実際、2年に一度の神田祭には、元社員が「担ぎたいんですけど、いいですか?」とやって来るのだという。

「一生のうちに同じ会社で働く確率なんて、天文学的だと思うんです。その人と喧嘩していて、どうするんだって」

人との出会いに感謝する姿勢は、仏教への信仰が篤く、在家で商売をしながら、曹洞宗大本山永平寺で得度をしていた祖父から、生まれたときから教わってきたものだ。ただ、鳥山さん自身は「売り上げを上げるのが下手なんですよ」と苦笑いも添える。出会いに感謝する姿勢は受け継いだが、商売の上手さまでは、まだ引き継げていないらしい。それでも、黄色い服を着て楽しそうに喋っている自然体のときのほうが、お客さまからの相談は多いのだそうだ。

タオルの学校から、恩を送る

2026年4月には「タオルの学校」を正式に立ち上げた。タオルの作り方を教える学校ではなく、学びと遊びがぐるぐると回るような場だ。子どもたちとドローンを飛ばし、一級建築士の指導でミニチュアの黄色いビルを本格的につくる。

タオル業界の資格「タオルソムリエ」の分厚い教科書は、AIでクイズやカードに変え、覚える約300語を敵キャラクターにしたインベーダーゲームまでつくった。小学5年生の息子と一緒に楽しみながら勉強し、社会科見学に来た子どもたちに遊んでもらうと、大騒ぎになったという。

「社長が学ぶ機会は多いんです。でも、社長が学んだものを社員にどう落とすか。そこがすごく重要だと思うんです」

自分が受けてきた学びや恩を、社員や子どもたち、そして地域の福祉へと渡していく。鳥山さんにとってタオルの学校は、そのための「恩送り」の場でもある。

もっとも、社員からすればタオルの学校は「はて?」の連続だ。誰が先生なのか、何を教えるのか——会社の組織を学校に見立てる構想を話したときには、「僕、学校が全然好きじゃないです」という声も返ってきた。鳥山さん自身にも、進学校で周りについていけず、誰とも話せなかった時期がある。だからこそ、強制されない学校のかたちを探りながら、学校嫌いが少しずつ解けていけばいいと考えている。

「僕は社長じゃなくて、管理人でいいんです。場を支える人。一番の裏方が向いていると思っています」

完成形を求めているわけでもない。「プロセスが一番面白いんです。完成したと思ったら、また次の課題が見つかる。だから、目の前の課題をどう楽しめるかなんです」

一年後の自分へ──受け継いだものと、これから残すもの

インタビューの終わり、誰かに伝えたいことがあるかと聞かれて、鳥山さんが選んだ相手は、一年後、三年後にこの映像を見返す自分自身だった。

「一年後、この動画を見ているあなた、元気ですか。ちゃんと元気でいなさい」

それは奇しくも、4月のイベントで人々に書いてもらった「一年後の自分を勇気づける手紙」と同じだった。鳥山さんは少し笑って、こう付け加えた——「今回のこの動画は、タオルは手紙、という動画なのかもしれませんね」

曽祖父から祖父へ、そして父を通じて鳥山さんへと手渡されてきたのは、タオル一本に身を捧げるという覚悟と、人との出会いに感謝する心だった。鳥山さんはそこに、「軽やかに、ケアし続ける。」という言葉を書き添えた。

80年続くタオル問屋がいま書いているのは、次の世代へ、そして一年後の自分へ宛てた、一通の長い手紙なのかもしれない。

横山町の交差点から黄色いビルを指さす鳥山さん

プロフィール

鳥山 貴弘(とりやま・たかひろ)
日東タオル株式会社 代表取締役社長。1947年(昭和22年)に祖父が創業した、日本橋横山町のタオル問屋の三代目。教育学部を卒業後、コンサルタント、学校教員を経て家業に入る。2022年に父から代表を引き継ぎ、「軽やかに、ケアし続ける。」を掲げて、タオルカフェや「タオルの学校」を運営。社長業のかたわら、社会福祉士の資格取得にも取り組む。タオルソムリエ。東京タオル卸商業組合理事長。

日東タオル株式会社
東京都中央区日本橋横山町6-3
TEL:03-3663-0801(店舗9:00〜15:00/電話受付9:00〜17:00)
事業内容:タオルの卸・小売・印刷、スクール事業(タオルの学校)、カフェ事業
ホームページ:日東タオル株式会社

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