朝の「おはようございます」から、帰りの「お疲れさま」まで、工場ではほとんど誰も喋らない。若い女性の社員も、始業から終業まで黙々とヤスリをかけ、金属に向き合っている。
東京都足立区の三祐医科工業は、金属製の医療器具を職人の手仕事でつくる会社だ。1972年(昭和47年)に先代の父が創業し、今年で54年目。社員は昔から10人に満たない、小さな町工場である。
二代目の小林保彦さんは、27歳で父から会社を継ぎ、昨年、息子さんに代表を譲った。量産の注文は断り、値引きの悔しさも味わってきた。それでも手放さなかったものがある。
「とにかく人は大事にしろ」——職人だった父から言われ続けたその言葉を、小林さんはいまも工場のなかで確かめている。

「親方の流れを継いでいるのは、うちだけ」──百年前から続く手仕事
三祐医科工業の歴史は、一人の少年の上京から始まる。
小林さんの父は、戦中は学校にも行けずに疎開先で過ごし、15歳で東京へ出てきた。「じゃあ仕事何しよう」と知り合いを頼って入ったのが、本郷で医療器具をつくる親方の工場だった。
住み込みで小遣いをもらいながら暮らす、昔でいう「でっち」のような修行だった。その親方は字も読めないほどだったが、とにかく腕が素晴らしく、医療機器を扱う商社からの注文が絶えなかったという。
工場には10人ほどの職人がいて、仕事を覚えると皆それぞれ独立していった。父も10年ほど修行して独立し、この会社を始めた。

ほかの職人たちの多くはその後廃業し、親方には娘さんしかいなかった。だから、いま親方の流れを純粋に引き継いでいるのは三祐医科工業だけなのだと、小林さんは話す。社内には、百年以上前に親方が使っていた道具が、いまも大切に置いてある。
「何を聞かれても、強みは手仕事だと言え」
小林さんは、ご飯を食べる部屋の隣が工場という家で育った。中学生のころには、学校から帰ると工場に入って手伝っていた。
そのころから、ものづくりが中国や東南アジアへ移っていくのを見ていた。量産を追えば、値段で勝負するしかなくなる——だから、海外へは行けない、国内に残る少量の製品をつくり続けると決めた。「もう逆行するっていう感じでしたね。ある意味」
医療器具は、もともとそれほど数が出ない製品が多い。一つひとつ作り込んでいくもので、自動化できないし、自動化するほどの数もない。機械を入れてどんどん自動化しようと考えたことは、一度もないという。
見積もりで「百個、千個、一万個なら安くなりますか?」と聞かれれば、はっきり断る。「全部手作りですから、うちは百個よりも千個やった方が手がかかるから、値段高くなりますよ」
いまは医療器具のほかに、一般向けの耳かきや、温度センサーなど計測器のステンレスパイプの加工も手がける。どれも「手作業じゃなきゃできない」うえに、ロットが小さく種類が多い。医療器具とちょうど同じ性格の仕事だ。

何を聞かれても、その強みはうちの手仕事だと言え
これは、代表を継いだ息子さんにいま伝えている言葉だ。
「明日から社長やれ」──風呂場から聞こえた声
子どものころから職人の仕事を見て育った小林さんにとって、仕事とは父がやっている職人仕事のことだった。製品に向かって黙々と手を動かす父や職人たちの姿を、ずっとかっこいいと思っていたという。
進んだのは、地元の足立工業高校。実習が好きで一生懸命に取り組んでいると、先生から「お前は授業を受けなくていいから、出来の悪いやつらの面倒を見てくれ」と頼まれた。教えるうちに自分の成績も上がり、楽しくてしかたがなかった。推薦で工業大学へ進み、卒業後は恩師に引っ張られて職業訓練校の講師も務めた。

1990年(平成2年)に入社。転機は、会社の火事だった。大きく燃えたわけではなくボヤ程度だったが、工場を全部直さなければならなくなり、それが代替わりのきっかけになった。小林さんは27歳だった。
継いだ日のことは、いまもよく覚えている。かしこまって呼ばれたわけではない。お風呂に入っていた父が「おーい」と呼ぶので行ってみると、「明日から社長やれ」と言われた。「ああ、わかりました」——それだけだったと笑う。
周りからは「そんなに若く社長やっちゃうの?」と言われた。けれど、親に言われたから継いだという感覚はない。
「親父に言われたからでは多分できなかったと思います。自分でやろうと思ったから、やれてきてるのかなと」
一方の父は、よくこうこぼしていた。「ダメになったら自分の代で創業者として終われるけど、後がいるから俺は心配で死ねない」
「十人超えるな」──気持ちは、製品に出てしまう
父がよく口にしていた言葉がある。「十人超えるな」——目が届かなくなるから、というのがその理由だった。
機械で量産する会社ではないぶん、つくる人の気持ちが、そのまま製品に出るのだという。
「気持ちが荒れてるなとか、落ち着いてないなっていうのは、製品を見ればわかるんです」
だから小林さんは、人と同時に、その人がつくったものを見る。毎朝「おはようございます」を交わすときには、体調や表情を気にかける。心配事がありそうなら、声をかける。少人数だからこそできることであり、父の言う「人が見えなくなる」ことを避けるためでもある。

人を大事にしたいという思いは、子どものころの記憶にもつながっている。父について回ったいろいろな工場には、つくる人をあまり大事にしない会社もあった。油まみれで働く人がいて、プレスの仕事で指を失った職人も見てきた。「なんでこんなところで働いてるのかな」と、子ども心に嫌だったという。
いい会社とは、製品がいいだけでなく、働いている人たちもいい会社だ——そう思って取引先を選んできた。父の代から付き合っていた加工屋は、いまはもう一つも残っていない。いま取引があるのは、小林さんの代になってから付き合いが始まったところばかりだ。
ごまかそうと思ったとしても、やっぱり形に出てきちゃうんです
職人は正直だ、と小林さんは言う。父は「バカがつくほど正直」な人だった。きちっとした考えと正直な気持ちがなければ、いいものはできない。医療器具は人の体に関わるものだからこそ、出荷する製品はすべて小林さん自身が確かめる。これまで、事故につながったことは一度もない。
「なぜ、言い返せなかったのか」──600円の悔しさ
父は、経営者というより、本当の職人だった。いいものをつくってお客さんに喜ばれれば、お金はいらない——そんな人だった。
あるとき、取引先の担当者から「親父さんをたまにはよこしなよ」と声がかかった。父は喜んで出かけていき、見積もりもせずに安い値段で仕事を取ってきた。「お客さん助けなきゃダメだ」と言う父に、小林さんは「それ、違うじゃん」と思った。そういうときこそ、きちんと代金をいただいて、きちっとした仕事をするべきだ——と。
けれど小林さん自身にも、忘れられない経験がある。社長になったばかりで、まだ見積もりがうまくできなかったころのことだ。本郷の取引先で「こういう品物なんだけど、いくらでできる?」と聞かれ、電話を借りて父に相談した。父は「千円ぐらいって言っとけばいいんじゃない?」と答えた。
そのまま伝えると、先方の社長は「千円は高いよな。六百円ぐらいだよ」と言って、注文書に六百円と書かれた。そして「まあ、そのうちいいことあるだろうよ」と付け加えてきた。
「そのときはその人に腹が立ったけど、そうじゃなくて、言い返せない自分に腹が立ったんです」
「申し訳ないです。これは千円じゃなきゃできないですよ」——なぜ、そう言えなかったのか。相手が納得するような説明ができなかった自分の不甲斐なさを、いまでも覚えている。その人を恨んではいない。むしろ、あの経験から得たものがあると思っている。

職人が低く見られている——取引の現場で、小林さんはずっとそう感じてきた。値段を上げないまま受け身で仕事を続けた結果、多くの職人が廃業していくのも見てきた。
値段を上げないことは、後継者もつくれないっていうことですから
こんな素晴らしい技術がなぜ消えてしまうのかと思うような仕事が、目の前でなくなっていった。三祐医科工業は、そうしてやめていった職人たちの仕事を引き継いできた。医師のもとを回る営業の人から「もうつくる人がいなくなっちゃった」と言われる器具も多い。「うちは作れるのに、そこで終わっちゃうのはもったいない」と小林さんは話す。
「職人の地位を上げるなんて、かっこいいことは言えないですけど、そういう気持ちはやっぱりありますよね。そういう会社に、そういう工場になりたいっていうのは、いまだに強いです」
「そういう人がいて支えられている」──50年、コツコツと
かつては、若い男性を職人として育てたいと考えていた。けれど、採用しては辞め、また採用しては辞め、の繰り返しだった。
そんなとき、職場体験に来た20歳の女性が「うちに入ってみたい」と言った。「女の子じゃちょっと難しいかな」と思ったが、「どうしてもやらせてほしい」という。やらせてみると、一生懸命に取り組んでくれた。
「僕が叶えたい部分が、もう出てきてるんです。それで、女性でもいいかなと思うようになって」
いまでは女性の社員も現場に立ち、始業から終業まで黙々とヤスリをかけている。
先代の父の代から、小林さん、そしていまの社長まで、三代の社長のもとで50年勤めてきた社員もいる。20代のころからずっとコツコツと手を動かしてきた、70代半ばの職人だ。
「50年一つの仕事をやれるって、すごいことだと思うんです。そういう人がいて支えられているんだなと、本当に思いますね」
三祐医科工業には、なぜか耳かきの取材が多く、テレビや新聞、雑誌がよくやって来る。最初は戸惑っていた年配の職人も、いまでは自分で「これはこうで」と説明できるようになった。それが何より嬉しかったという。

それでも小林さんは、社員の本音までは分からないと話す。「本当は『こんなところに、こんなに長くいたくなかった』なんて言われちゃうかもしれない」——そう笑いながらも、こう続けた。「でも、本当に嫌だったらいないと思いますよ」
「通帳も開かないです」──息子に渡したもの、渡さないもの
息子さんは大学を出たあと、いくつかの会社に勤めていた。会社を変えると聞いたときに「じゃあ、やってみるか」と声をかけると、入ってきた。本当にやるとは思っていなかった。「本当にやるのか」と聞くと、「いや、やるよ。俺、好きだから」と返ってきたという。
小林さんは、息子さんに現場の仕事はさせていない。「やらないでいい」と言っているほどだ。
「振り返ると、私は本当は経営してなかったんじゃないかなっていう部分があって。ものづくりが好きで没頭しちゃうと、お金のことを正直考えなくなっちゃうんです」
だから、お金の管理はすべて息子さんに任せた。税理士とのやりとりも、いまは社長である息子さんがしている。
「最近は通帳の残高も確認しないので、肩こりがなくなりました」
一方で、仕事のやり方はほとんど口にしない。自分が父から言われる側だったからこそ、「自分で考えてやってくれ」という気持ちが強い。時代も環境も違うのだから、自分の成功体験は通用しないと考えている。ただ、「医療機器にこだわるな」とだけははっきり伝えている。ものづくりから離れなければ、医療機器だけにとらわれなくていい——そう考えているからだ。
いま、小林さんの心境は少し変わってきた。「足立ブランドでこうしてやろう」「こういうメーカーのトップになろう」——そんなギラギラした野望は、薄れてきたという。代わりに出てきたのは、純粋に好きなものづくりに向き合える気持ちだ。
「そうしてくると不思議なもんで、いい仕事が来たりするんです。ガツガツしていたときには来なかったような気がしますね」

終わるときの気持ち──受け継いできたもの、これから残すもの
長く同じ業界にいると、職人たちが仕事をたたむ場面に何度も立ち会う。そこで小林さんは、つらい言葉も聞いてきた。辞めていくときに、その人がそれまでどう扱われ、何を我慢してきたのかが出てしまうのだという。
一方で、何の嫌みもなく「うち、やめるからお宅にたのんだよ」と仕事を託してくれた職人もいた。最後に終わるときの気持ちは、すごく大事だ——小林さんはそこから学んだ。
「だから自分も、仕事を終えるときにはきちっとしなきゃいけないなと思っています」
どんなに大変な思いをしても、「もういいや、俺一人でやろう」と思ったことは一度もない。人がいなければできない仕事だと、ずっと思ってきたからだ。
「こういう人たちがいるから、自分も動ける。スタッフがいるから、自分のやりたいようにもできる。それはすごく思っています」
十人超えるな——父のその言葉は、人数の決まりというより、一人ひとりの顔と仕事が見える距離を手放すな、という教えだったのかもしれない。
明日の朝も、三祐医科工業の工場では「おはようございます」が交わされ、静かにヤスリの音が続いていく。百年前の親方から父へ、父から小林さんへ、そして息子さんへ——手渡されてきたのは、手仕事の技と、それをつくる人を大事にする心だ。

プロフィール
小林 保彦(こばやし・やすひこ)
三祐医科工業株式会社 二代目。1972年(昭和47年)に父が創業した、金属製医療器具をつくる町工場に生まれ育つ。足立工業高校、芝浦工業大学工学部を経て職業訓練校の講師を務め、1990年(平成2年)に入社。27歳で父から代表を引き継ぎ、2025年(令和7年)1月に息子へ代表を譲る。いまも現場でものづくりに向き合う。
三祐医科工業株式会社
所在地:東京都足立区
創業:1972年(昭和47年)
事業内容:金属製医療器具の製造(手仕事による受注生産)、耳かきなど一般商材の製造、計測器部品の加工
足立ブランド認定企業





